それでは善き終末を

身近な出来事、ニュースから思ったこと考えたことをつれづれなるままに書いていくブログ

区別と差別は違う。問題は相手の否定

昨日、職場の最寄り駅で7~8人の男女がプラカードを持って立ってまして
「戦争法案…」「共謀罪…」とかってプラカードですよ
その中に『差別主義者は恥を知れ』っていうのがありまして

差別主義者というのがどのようなものを指しているのかは別にして
『差別』という言葉について自分で考えておいたほうがいいのかな
って思いました。

差別っていうのは、区別して優劣をつけることだと思うんですよ
例えば蕎麦屋さんが
「うちの蕎麦はそば粉100%です。あちらの店は小麦粉入ってますよ」
と言ったとする。これは『区別』。
そしてそこから
「そば粉100%の蕎麦のほうがいいですよ。糖尿病を気にしている人は特にね」
と優劣をつけたら、それは『差別』

うちの蕎麦と、あちらの蕎麦は違う。そしてうちの蕎麦のほうが良い
これが差別化というやつですよね
商品やサービス売ってる人間は差別化して生き残りましょう
なんて話をよく見ます

僕は差別までは悪くはないと思うんですよ
差別してから先ですよね。

問題は相手を『否定』すること
蕎麦屋であれば差別化したあとに
「小麦粉が入ってるのは蕎麦じゃねぇ!」
と相手を『否定』すると問題がでてくる

蕎麦じゃねぇ!って否定すると
そこの看板破壊したり
業務に支障が出るほど悪口をふりまいたり
といった破壊行動に出るでしょう

破壊行動が問題で、それは相手の否定からでると思うんですよ

世の中には差別をなくすには、相手を消滅させるといい
と考える人達がいます。
そば粉100%の蕎麦以外無くなれば蕎麦屋差別はなくなる
という発想です
『区別』→『差別』→『否定』→『破壊』→『差別のない社会の実現』
ですね

共産主義最高!共産主義者以外全員いなくなれば、差別のない社会が実現できる
って考えてスターリン毛沢東は大勢の人を殺したわけです。

差別をなくすという考えがあってもいいと思う
ただし、やり方はよく考えてほしい
相手を破壊しつくして差別をなくそうとは思わないでほしい
と駅前でプラカードを持つ中核派(共産主義者)を見て思いました。