行為を憎んで、信仰を憎まず
***注意:この投稿には宗教的発言が含まれています***
プロフィールをトリコロールにするかどうかの話なのですが…
私はフランスで行われたテロという【行為】を憎んでおります。
しかし、イスラム教徒の【信仰】を憎んではおりません。
おそらく、多くの日本人が同じ考えではないでしょうか?
一神教徒(イスラム、キリスト、ユダヤ)にとって「異教徒は敵」です。
彼らの態度はふたつ。
異教徒は敵。だから、徹底的に戦う。
もしくは
異教徒は敵。しかし、寛容な態度を示そう。
「異教徒は敵」である前提は同じく、
その後の順接「だから」、逆接「しかし」によって行為がスイッチするだけです。
「異教徒は敵」
知識として知っていますが、この感覚はわかりません。
神道、仏教という異教徒に極めて寛容な宗教的素地を持つ私には分かりません。
おそらく多くの日本人が分からないのではないでしょうか?
そして、同じように一神教徒の人たちにも日本人の感覚は分からない。
フランスはキリスト教の国であり、
この状況で彼らの価値観に飛び込み
プロフィールをトリコロールにして「pray for pari」
を宣言するのは重大な誤解を生むのではないかと思います。
例えば、日本人とっては哀悼の意を示す「pray for pari」つもりが、
敵対関係の一方に加担を宣言する「stand for pari」と受け取られるような。
「行為を憎んで、信仰を憎まず」
国際的には理解しにくい日本独特の感覚を丁寧に発信していく必要があるのかな?
と私は思います。
***注意:この投稿は【信仰】に対する理解を求めるものであり、テロ【行為】に対する寛容を示すものではありません***